2009年01月29日
宮本武蔵
先週は、
第二回配本DVDコレクション、
宮本武蔵が届きました。
中学生時代から約3年毎に
吉川英治の宮本武蔵を
読んでまいりました。
此処20年程読んでおりません。
テレビや映画でも幾度と無く
見てまいりましたが、
このDVDは、昭和40年公開の
5部作のラストを飾る決定版です。
所謂、巌流島の決闘です。
史実とはかけ離れている部分も
ありますが、面白いものです。
その後の武蔵については、
「それからの武蔵」と言う本で、
小山勝清の作品の全6巻が
あります。
これも面白いです。
熊本の武蔵塚駅に行かれて、
宮本武蔵のお墓に参られるのも
趣があります。
温故知新と言う言葉が在りますが、
若い方に通用するでしょうか?
来月1日より、
52歳の身体に障害を持った
ホームレスが一人、
アパートに入居します。
未だ、生活保護も申請せず
ポスティングの仕事を
頑張ってやります。
感謝! 神謝!
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◎痛み・筋トレ・ダイエットでお悩みの方はEMSへ
Posted by 髭爺 at 10:52│Comments(2)
この記事へのコメント
武蔵は、その厳しい晩年は、太平の世になり最早彼の生き方が世に受容れられぬと悟ってからが、人の心を打つのだと思います。若き日の激しい生き方は、恰も高度成長期の日本との類似性を感じます。少しニュアンスは違いますが、盛者必衰の理を感じます。だからこそ、彼は声を大にして警世を述べたかったのでしょう。しかし、細川藩の記録には、僅かな記録しかないとかで、後を継ぐ剣術家が作り出したとか・・・。確か、彼の養子が黒田藩に仕官した筈です。
Posted by ゆき at 2009年01月30日 13:24
ゆきさん
先日は東洋大のスポーツ新聞をご送付頂きまして真にありがとうございました。
武蔵の養子の伊織は、15歳の時武蔵の推挙により徳川家の譜代である播磨国明石藩の小笠原忠真に仕える事となりました。
外様である細川家が豊前から熊本に移封された後、小笠原家は九州の玄関口となる小倉藩に封入し、西国の譜代大名の筆頭となり九州の外様の監視役となりました。
島原の乱の折、武蔵父子共々が軍功を上げたと言うことで、家中の譜代・一門衆を飛び越えて伊織は知行4,000石の小倉藩小笠原家の筆頭家老となりました。
以来其の地位は代々宮本家が世襲しております。
現在も其の末裔の方々が小倉を中心に居住しておられます。
小笠原家は、明治維新の折伯爵に任ぜられ華族に列せられております。
先日は東洋大のスポーツ新聞をご送付頂きまして真にありがとうございました。
武蔵の養子の伊織は、15歳の時武蔵の推挙により徳川家の譜代である播磨国明石藩の小笠原忠真に仕える事となりました。
外様である細川家が豊前から熊本に移封された後、小笠原家は九州の玄関口となる小倉藩に封入し、西国の譜代大名の筆頭となり九州の外様の監視役となりました。
島原の乱の折、武蔵父子共々が軍功を上げたと言うことで、家中の譜代・一門衆を飛び越えて伊織は知行4,000石の小倉藩小笠原家の筆頭家老となりました。
以来其の地位は代々宮本家が世襲しております。
現在も其の末裔の方々が小倉を中心に居住しておられます。
小笠原家は、明治維新の折伯爵に任ぜられ華族に列せられております。
Posted by 髭爺 at 2009年01月30日 17:20